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日本一誤解されている人物、東条英機について解説します。

やぁ。おいらです。歴史好きが相まって前回角栄の紹介をやった結果、見事に人物紹介にはまってしまいました笑。

好きなことを極めるのが一番。ということで今回は日本一誤解されている人物、元内閣総理大臣東条英機について解説します。

日本を敗北に導いたり、日本軍の大虐殺を指揮したりなど、悪い印象しかない東条氏、彼の素顔に迫れば、間違いなく彼の印象は変わるはずです。

今回は責任重大な記事になりそうだなぁ。ということでさっそく書いていこうと思います。

参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9

 

 

  

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東条英機(以下、東条)は1884年、東京都に生まれました。

父は下士官から成績一番で入省しながらも、最終的に予備役に回されてしまった、ある意味不憫ともいえる人物です。東条はこんな父親のもとで育つうちに、彼自身も軍人を志すようになります。

そんな志を持ちながら、東条は東京地方幼年学校、また二回の落第の末陸軍大学校に入学します。

この時毎日のように勉強を手伝ってくれた小畑敏史郎、永田鉄山岡村寧次とは終生の友になります。

この時東条は「陸軍学校に受かるにはどうすればよいか」ということを懸命に考え、合格までの道を逆算して勉学に励みました。

よく精神論で語られる東条は、実はこんな一面もあったんですね。

この後東条は様々な地位を歴任しますが、あくまで今回は東条の汚名を晴らしたいので、今回は割愛します。

 

 

 

 

   

東条が政治の道を歩き始めたのは1940年から第二次、第三次近衛内閣で陸軍大臣を務めたことからでした。

40年と言えばすでに盧溝橋事件から日中戦争が泥沼化していたころでした。

そんな状況で政治を任された東条は、関東軍から「中国との進行を止めてくれ」という打診を受けましたが、ここで有名な「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」と返電しました。

ここら辺は正直賛否両道あると思いますが、僕は悪いイメージは持っていません。

大臣と言えば官僚の拡声器だとぼくはかんがえています。しかもこの以前には、官僚だけではない民意があらわされた「二二六事件」が起きています。

いくら勤勉な東条でも、あの時代、しかも戦渦という最悪のタイミングでバトンを渡されてはかなわないと思います。時代が悪かった、これに尽きるのではないでしょうか。

 

その後日中戦争の泥沼化、アメリカからの屑鉄輸出入禁止における日米関係の悪化により、アメリカとの戦争を想定した「第一回総力戦机上演習総合研究会」において、「日本必敗」との報告が上がりますが、東条は「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」といったといいます。

ここら一連の行動が、後世に東条は戦争主義者だという印象を与えたのだと思います。

 

 

ごめんなさい、今回はここまでにして、次回から総理大臣時代の東条をかいていきたいと思います。

眠すぎますじゃあの