僕の世界

生活にあるいろんな人物を紹介するぞい

日本におけるタバコの歴史

タバコ

こんにちは。今回は増税が続く日本のタバコの歴史について、サクッと解説していきたいと思います。ではいこう

 

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昭和で200円で変えた煙草も、現在は電子、紙ともに600円の大台を超えてきました。

そんなたばこの歴史は16世紀にまでさかのぼります。ですが、実は明確な期限は分かっていません。現説では、1543年のポルトガル人が種子島に漂流した際に伝えられたとする説が有力です。

その後の16世紀末、秀吉公から德川公へと統治者が移り変わった時代においては、タバコに関する多くの文献が確認されています。

その後、タバコが本格的に作成されるきっかけになったのは、17世紀初頭、修道士がタバコの葉と種子を徳川家康に拝謁して献上したことがきっかけです。

 

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ですがこの出来事から葉を切り刻む包丁が作成されたりしていましたが、20年余り以後、禁煙例が交付され、タバコを吸うことが違法なものであるとされてしまいました。

時期で言うと、三代将軍家光が就任していたころです。

さて、この時期が終わり、禁煙例が解除されると、ついにタバコに税金がつくことになります。島根県のある藩で税金が付与されてから400年たった今も、人々は税金に苦しめられているってことですね。

それだけでも400年前の喫煙者の肩身が狭くなったわけですが、その後さらに家屋内での喫煙が禁止されました。今の喫煙者と同じ気持ちを持ってそうで少し感動してしまいました。

 

 

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さらに、愛知県での特例を除き、もともと耕していた土地でのタバコの生産が厳格化されていきました。タバコを生産するためには、新しく土地を作る必要ができてしまったんです。

 

 

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江戸期はその後、喫煙具にも課税されたり、と思えば人々が画期的な喫煙具を開発したりと、タバコは大きく日常の正確に溶け込んでいきました。

 

 

次の解説では、江戸末期から明治、昭和初期にかけてのタバコを解説していきたいと思います。ありがとうございました。

 

今週のお題

今週のお題「マイルーティン」について話します。

 

 

 

マイルーティンと言えば、ずばり「朝一発目にハイライトを吸う」です。

今回は喫煙者ならあー---と、非喫煙者ならタバコの良さが少しわかるかもしれない、そんな記事にしたいですね。

 

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実は僕だけかもしれませんが、朝一発目のタバコってすごくまずいんですよ。ほんとに。友達はおいしいとか言ってパカパカ吸ってますが、僕は朝のルーティンとして吸っているだけであって、もし朝すいたいと思ってなかったら絶対にすいたくないくらい苦い、というかまずいですね。はい。

ではなぜ吸うのか。おそらく非喫煙者の皆さんが思ったことでしょう。

タバコって目が覚めるし、朝一発目頑張ろうと思えるんですよね。あの、タバコを吸っている間だけ時間がゆっくり流れるあの瞬間がたまりません。

朝起きると目がしょぼしょぼしてたり、頭が働かない時ってありますよね、というかほとんどそうだと思います。そんな時に「レギュラー」のタバコですよ。レギュラーというのが個人時にツボです。メンソールを朝にすってると、何かお菓子を食べてる感じになっていやです。

頭が働いていないときにじっぽでニコチンに火をつけるんです。自分の好きな音楽をかけながら。そうしたら苦いたばこの味が口に入ってくるんですよ。そこでコーヒーを飲むのもいいですね。最近は微糖がお気に入りです。タバコを吸い終わったら「今日は頑張るぞ」とか「今日何しようかな」と考える時間もまたたまらなく好きです。

 

 

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ほかにタバコがらみで好きなルーティンはやっぱり、散歩がてらの一服ですね。

夜22時くらいにぱっと家に出て、公園に行く。ちょっと歩いたな、疲れたなーと言いながらタバコを吸うんです。タバコを吸ったほうが苦しくなるとは分かっているんですけどね、やはり外でタバコを吸うのが一番うまいですね。

またまた非喫煙者のかたにはわからない話で申し訳ないのですが、冬に街灯が一つしかないところで吸うたばこが、ものすごくうまいんですよ。煙が可視化されるほど、うまいんです。夏に吸うたばこもそれなりなんですが、やはり冬ですね。これからの季節が楽しみです。

 

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みなさんのルーティンは何ですか?ぜひ教えてください。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

日本一誤解されている人物、東条英機について解説します。

やぁ。おいらです。歴史好きが相まって前回角栄の紹介をやった結果、見事に人物紹介にはまってしまいました笑。

好きなことを極めるのが一番。ということで今回は日本一誤解されている人物、元内閣総理大臣東条英機について解説します。

日本を敗北に導いたり、日本軍の大虐殺を指揮したりなど、悪い印象しかない東条氏、彼の素顔に迫れば、間違いなく彼の印象は変わるはずです。

今回は責任重大な記事になりそうだなぁ。ということでさっそく書いていこうと思います。

参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9

 

 

  

https://image.moshimo.com/af-img/0032/000000001223.gif

 

東条英機(以下、東条)は1884年、東京都に生まれました。

父は下士官から成績一番で入省しながらも、最終的に予備役に回されてしまった、ある意味不憫ともいえる人物です。東条はこんな父親のもとで育つうちに、彼自身も軍人を志すようになります。

そんな志を持ちながら、東条は東京地方幼年学校、また二回の落第の末陸軍大学校に入学します。

この時毎日のように勉強を手伝ってくれた小畑敏史郎、永田鉄山岡村寧次とは終生の友になります。

この時東条は「陸軍学校に受かるにはどうすればよいか」ということを懸命に考え、合格までの道を逆算して勉学に励みました。

よく精神論で語られる東条は、実はこんな一面もあったんですね。

この後東条は様々な地位を歴任しますが、あくまで今回は東条の汚名を晴らしたいので、今回は割愛します。

 

 

 

 

   

東条が政治の道を歩き始めたのは1940年から第二次、第三次近衛内閣で陸軍大臣を務めたことからでした。

40年と言えばすでに盧溝橋事件から日中戦争が泥沼化していたころでした。

そんな状況で政治を任された東条は、関東軍から「中国との進行を止めてくれ」という打診を受けましたが、ここで有名な「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」と返電しました。

ここら辺は正直賛否両道あると思いますが、僕は悪いイメージは持っていません。

大臣と言えば官僚の拡声器だとぼくはかんがえています。しかもこの以前には、官僚だけではない民意があらわされた「二二六事件」が起きています。

いくら勤勉な東条でも、あの時代、しかも戦渦という最悪のタイミングでバトンを渡されてはかなわないと思います。時代が悪かった、これに尽きるのではないでしょうか。

 

その後日中戦争の泥沼化、アメリカからの屑鉄輸出入禁止における日米関係の悪化により、アメリカとの戦争を想定した「第一回総力戦机上演習総合研究会」において、「日本必敗」との報告が上がりますが、東条は「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」といったといいます。

ここら一連の行動が、後世に東条は戦争主義者だという印象を与えたのだと思います。

 

 

ごめんなさい、今回はここまでにして、次回から総理大臣時代の東条をかいていきたいと思います。

眠すぎますじゃあの

僕の大好きな人物、田中角栄を紹介します。③

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田中角栄


やぁ。おいらです。今日の横浜はついに氷点下を迎えました。

寒すぎません?

北海道昔言ったことあるんですけど、寒すぎて危うく死にかけました。 あそこに毎日住むのは芋虫の僕には無理です。はい。

 

 

気を取り直して今回は角栄の紹介ラストになります。

前回は総理大臣に上り詰めた角栄を紹介しました。

今回は日本のトップになった角栄の経歴から、晩年「闇将軍」と呼ばれた角栄の活躍について解説しようと思います。

いきます。

 

 

 

 

72年に福田赳夫に勝利して発足した田中内閣は、初めから大一番に臨みました。「日中共同声明」の草案を実現させるために角栄は中国へ訪問、毛沢東主席らとの対談の末、「日中平和友好条約」を締結します。内閣発足から二か月足らずでこの快挙は圧巻と言わざるを得ません。

その後ソ連やメキシコにわたり外交を展開した角栄に、ある大きな壁が立ちはだかります。そう、石油危機です。

当時の日本でも中東戦争の影響は馬鹿にならず、田中内閣は迅速な対応を求められました。

しかし、なかなかいい手が打てず、二年ほど在任したのち、退任し、三木武夫新総裁に総理の座を譲りました。ここから「三木おろし」と呼ばれるほど政治が大きな困難を迎えるなか、角栄はどのように影響を持って行ったのでしょうか。

 

 

 

角栄は先述したとうり、「木曜クラブ」という自分の派閥を持っていました。

総理を降りた角栄はそこから新総理を排出し、権力を維持しようとしましたが、ここで角栄に人生最大の困難が立ちはだかります。そう、ロッキード事件です。

 

 

角栄アメリカの航空会社、ロッキード社から五億もの献金を受け取ったとして逮捕されてしまったのです。

これですが先述した日中平和友好条約に腹を立てたアメリカが行った策略だという説があります。詳しくは調べていただきたいのですが、僕はどちらかというとアメリカの陰謀説を押しています。あまりにも話ができすぎていると思うからです。

 

 

ですが逮捕され、裁判が続いているさなかも、角栄は多くの支持を得て、自派からも多くの総理大臣を排出していきます。

78年三月には三木おろしの結果退任した三木武夫の後任として、大平正芳を新総理に押し上げます。

ですがこれは大平の急死により短期政権に終わります。

ですがまた大きな権力を使い、鈴木善幸を新総理として押し上げます。このころ、政治用語として当時の権力的有力者を現した、「三角大福中」という言葉もはやりました。もちろん、角栄もこの中に入っています。

 

鈴木内閣は北方領土問題解決のため、初めて現地の視察を行いました。

 

その次の総裁選ではまたもや角栄木曜クラブから新総理をプッシュ、中曾根康弘を担いで内閣を発足します。

この内閣は電電公社などを民営化させたことなどで知られますが、特に角栄の政治色が強いことから「田中曾根内閣」と揶揄されました。

このとき、なんと木曜クラブに入っていた若手議員がクーデターをおこし、40名弱を連れて新しい派閥、「創政会」をけっせいします。

この時不運にも角栄脳梗塞でたおれ、障害が残ったことから以後政治にかかわることはなくなってしまいました。

その後木曜クラブに在籍していた竹下登が「経世会」を発足したことで、木曜クラブは消滅の一歩をたどりました。

 

93年、角栄は肺炎のため、慶応病院で亡くなりました。

晩年は裏から政治を回す闇将軍として活躍した角栄。彼から学ぶことは、とても大きいのではないでしょうか。

 

 

 

 

ふぅ。今回の企画は全三回で構成してみました。

正直角栄は賛否が多い人物ではありますが、僕は彼をとても尊敬しています。

あんな生き方を僕もたどってみたいです。

もしこの記事で角栄に興味を持ったら、ぜひ石原慎太郎氏の「天才」を読んでみてください。

令和の時代にこんな政治家が出てきたら、日本は大きく変わるのかもしれませんね。

じゃあの。

 

 

 

僕の大好きな人物、田中角栄を紹介します。②

 

 

 

 

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角栄


やぁ。おいらです。今回は昨日に引き続き僕の大好きな人物、田中角栄を紹介します。

前回は出生から政界入りまでを解説しました。

今回は政界入りから内閣総理大臣になるまでを解説しようと思います。

行きましょう👀👀👀

 

 

 

 

前回角栄は自らの会社、「共栄建築事務所」を「田中土建工業」へと改名、政治家への献金をきっかけに新潟で政界入りを果たします。

しかし、政治家となった角栄にはまた試練が立ちはだかります。

政治家となった角栄に金銭的癒着の疑惑がかかり、自宅家宅捜索の末逮捕されてしまいます。

ここで角栄の政治人生はおわってしまうのか、そう思った方が多いのではないでしょうか。

しかし角栄は「疑惑を持たせた自分が悪い。もう一度当選してやる」と自らの非を認め、なんと獄中から立候補、しかもtop当選を果たします。

僕は角栄のだいすきなところはここらへんの 粘り強さです。

のちに解説するロッキード事件においても、角栄は裏から政治を動かし、「裏将軍」と呼ばれるほど影響力を持ちました。

賛否はあると思いますが、それでも学歴がないと割り切って自分があるべき分野に注力する。これってシンプルながらとても難しいことだと思います。

 

 

 

 

さ、話を戻します。

舞い戻った角栄は主にインフラ整備、国土開発を取り扱う部署に配属され、俗にいう「議員立法」の作成に励みます。この議員立法ですが、角栄議員立法成立数は33で日本一です。

主に成立させた議員立法には、一級建築士などの枠組みを定めたものから、テレビの公安について規定したものまでさまざまです。

現在の世間の根幹をなす立法をかたどったのは角栄だったんですね。

角栄が立法を行っている間、政治は大きく動いていました。

民主自由党が1950年に自由党へと改名、角栄はそれから四年後の54年に吉田茂内閣で自由党副幹事長に成り上ります。「吉田十三人衆」と呼ばれるほど上り詰めた角栄はその後、

・57年、岸内閣で戦後初の30代で郵政大臣に就任。

・61年、自民党政調会長就任(現在は高市早苗先生が在任)

・62年、第二次池田内閣の改造により大蔵大臣就任

・65年、大蔵大臣を退き、自民党幹事長就任

71年、第三次佐藤内閣で通商大臣就任

 

 

 

など、芳しい出世街道をひたむきに走りました。

ここで、角栄を代表するある著書が世間に流通しました。

その名は日本列島改造論。インフラを都市部だけではなく、過疎部にも伸ばすのを目標にした新潟出身の角栄らしい画期的な本でした。

これが大ヒットを記録、総理の座が見えてきます。

 

 

 

日本列島改造論」を発表した一か月後、角栄自民党総裁選に臨んでいました。

佐藤内閣在任中に議員を従え「木曜クラブ」という新派を確立していた角栄は、佐藤栄作が推薦した福田赳夫に僅差で勝ち、ついに64代内閣総理大臣に成り上りました。

このエピソードが角栄の逸話の中で一番好きです。

福田は総理のバックアップを受けていて、しかも東大法学部卒業後大蔵省に入った、政治家としては超一流の人物でした。

そんな人物に高等小学校卒の角栄が打ち勝つなど誰が想像したでしょうか。

これは後年「人たらし」と呼ばれた角栄のまぎれもない努力の塊です。元気がないとき、なにもしたくないとき。いつもこの逸話を思い出しています。

 

 

 

 

今回はここまで。次回は最後として総理就任からロッキード事件、晩年の角栄について紹介していきます。

(角栄のようなどすの利いた声で)じゃあの。

博之氏の著書から理想の生き方を発見した件

やぁ。おいらです。

今回はタイトルの通りです。

僕の理想の生き方を僕なりに語ってみようと思います。

いきます。

 

 

僕は先日三日間かけて博之氏の著書「1%の努力」を読みました。

12月現在、36万部を突破している大ヒット作です。

この本ではざっくりと博之氏の半生を語った後、博之氏の本では珍しく自分自身の価値観が何処から発現したかを書き記しています。

この本で僕が一番面白いと思ったのは、すべてが後付けではなく、当時の経験や意見を交えながら書き記しているところです。

それにより、どのようにして博之氏が成功したのかが読み進めていくとわかる本です。

 

 

博之氏と言えばある意味破天荒な性格で知られています。

そんな博之氏がどのようにして成功していったのか。

詳しく書くとキャパオーバーになってしまいますから、ぜひ「1%の努力」を手に取っていただきたいのですが、ここからは僕がこの本を受けて生き方を考えてみたので、聞いていただきたいです。

 

その生き方とはズバリ、「自身を大切にする生き方」です。

、、、ありきたりですいません笑。ですがこれからはこれを指針に生きていこうと思います。

今日、知人からこんなことを言われました。

「おい苦学生、お前の服ダサいぞ、そんなんじゃ女の子は寄ってこない!」

ですが別の日、まったく同じ服装で別の知人に会ったとき、こういわれたんです。

「なんか今日の苦学生の服装いいね、前会った時の野暮ったい服装と違いよ。」 

もちろん服装以外にも顔や髪形など、要素はたくさんあったと思います。

ですがこの二つの意見から、こんなもんなんだな、と僕は思ったわけです。

ダサいと言った知人を批判しているわけではないです、そこから服のデザインやセットアップを参考にすることもできるわけですから。

ですが人間は数多いて、一人ひとりもちろん違います。

そんな人間の意見を聞いてくよくよしていては仕方がないと思うのです。

でもだからと言ってすべてを批判したり、有識者の意見だけ聞いたりするのはいやはや早計だと思います。

前の例で考えますと、批判してくれた人に「じゃあ俺に合う服ってどんなのかな」と聞いてみるだけで僕の服装はすごく、すごく変わります。

前述していないのですが、もう一つこの本が導いてくれた指針があります。

 

それは、「二進も三進もある学びを見落とさない」という生き方です。

自分が行動していなくても、向こうからくる学びというのはたくさんあります。

例えば僕は今日公園に行ったのですが、そこで滑り台を目にしたとき「上にいる人間は落ちないと思っているが、気を抜くとすぐに滑ってしまう。今の日本の会社の体系に似ているな」と子供ながら思ったわけです。

僕みたいなへこたれが学べるわけですから、皆さんの周りにはもっと多い学びがあります。

坂本龍馬が言っていた、ことをなす、という言葉が頭に残っています。

これからも僕は博之氏から学んだ生き方を大事にして、必ず成功して見せます。

僕の大好きな人物、田中角栄について紹介します。①

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田中角栄

 

2,500冊の本を10分で!本の要約flier(フライヤー)

やぁ。おいらです。今回はタイトルの通り、故田中角栄先生(以下、敬称略)について紹介しようと思います。

田中角栄は本当に魅力的な人物で、知れば知るほど味がでる人だと思います。

今回だけではないですが、僕のブログでは、これで全部がわかる紹介というよりは、自著本や詳細に知りたいと思った際に手助けになる紹介にしたいと思っています。

そのため、youtubeで散見される動画やwikipediaをざっくりと引用させていただきながらこのブログを書かせていただきたいと思います。

今回は中田敦彦さんのこちらの動画、また一部wikipediaを参照させていただきました。

 

①では角栄の幼少期から政界入りまでを書いていきたいと思います

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%A7%92%E6%A0%84

ja.wikipedia.org

 

 

youtu.be

 

 

 

角栄は1918年、新潟県に生を受けました。

幼少は極貧、それに加え吃音だったこともあり、よくいじめられていたといいます。

僕初めて調べたときびっくりしたんですけど、角栄は吃音を自力で直したそうです。

吃音と言えば今でも直す外来があるくらい難しい病気、もしかしたらこのころから角栄は努力家だったのかもしれませんね。

さ、話を戻して。角栄は高等小学校をとても優れた成績で卒業します。

この時角栄は「親への罪悪感」から旧制中学への進学を断念します。

その後角栄は上京し、土木会社で働きますが続かず。三か月ほどでやめてからは書生として勉強しようと思い立ちますが、不手際があってその志はかないませんでした。

そこで角栄は中央工学校に入学、とうじ早稲田大学から出ていた土木関係の書類を使って勉学に励みます。

転機が訪れたのは学校を卒業した後に訪れました。

当時土木課を卒業し、ある会社で働いていましたが、事務所の偉い方が徴収されるという事情から「共栄建築事務所」を設立します。

そこからのち、角栄は共栄建築事務所から「田中土建工業」ほと名前を変えます。

ここは聞きなじみのある名前ですよね。

この田中土建工業がある政治家に献金の依頼をしたことをきっかけに政治への道を志し、新潟一区でトップ当選を果たします。

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こんかいはここまで。②では政治家の橋崖からどのように内閣総理大臣になったのかを解説しようと思います。

疲れたので寝ます。じゃあの。

 

 

 

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