僕の大好きな人物、田中角栄を紹介します。③
やぁ。おいらです。今日の横浜はついに氷点下を迎えました。
寒すぎません?
北海道昔言ったことあるんですけど、寒すぎて危うく死にかけました。 あそこに毎日住むのは芋虫の僕には無理です。はい。
気を取り直して今回は角栄の紹介ラストになります。
前回は総理大臣に上り詰めた角栄を紹介しました。
今回は日本のトップになった角栄の経歴から、晩年「闇将軍」と呼ばれた角栄の活躍について解説しようと思います。
いきます。
72年に福田赳夫に勝利して発足した田中内閣は、初めから大一番に臨みました。「日中共同声明」の草案を実現させるために角栄は中国へ訪問、毛沢東主席らとの対談の末、「日中平和友好条約」を締結します。内閣発足から二か月足らずでこの快挙は圧巻と言わざるを得ません。
その後ソ連やメキシコにわたり外交を展開した角栄に、ある大きな壁が立ちはだかります。そう、石油危機です。
当時の日本でも中東戦争の影響は馬鹿にならず、田中内閣は迅速な対応を求められました。
しかし、なかなかいい手が打てず、二年ほど在任したのち、退任し、三木武夫新総裁に総理の座を譲りました。ここから「三木おろし」と呼ばれるほど政治が大きな困難を迎えるなか、角栄はどのように影響を持って行ったのでしょうか。
角栄は先述したとうり、「木曜クラブ」という自分の派閥を持っていました。
総理を降りた角栄はそこから新総理を排出し、権力を維持しようとしましたが、ここで角栄に人生最大の困難が立ちはだかります。そう、ロッキード事件です。
角栄はアメリカの航空会社、ロッキード社から五億もの献金を受け取ったとして逮捕されてしまったのです。
これですが先述した日中平和友好条約に腹を立てたアメリカが行った策略だという説があります。詳しくは調べていただきたいのですが、僕はどちらかというとアメリカの陰謀説を押しています。あまりにも話ができすぎていると思うからです。
ですが逮捕され、裁判が続いているさなかも、角栄は多くの支持を得て、自派からも多くの総理大臣を排出していきます。
78年三月には三木おろしの結果退任した三木武夫の後任として、大平正芳を新総理に押し上げます。
ですがこれは大平の急死により短期政権に終わります。
ですがまた大きな権力を使い、鈴木善幸を新総理として押し上げます。このころ、政治用語として当時の権力的有力者を現した、「三角大福中」という言葉もはやりました。もちろん、角栄もこの中に入っています。
鈴木内閣は北方領土問題解決のため、初めて現地の視察を行いました。
その次の総裁選ではまたもや角栄が木曜クラブから新総理をプッシュ、中曾根康弘を担いで内閣を発足します。
この内閣は電電公社などを民営化させたことなどで知られますが、特に角栄の政治色が強いことから「田中曾根内閣」と揶揄されました。
このとき、なんと木曜クラブに入っていた若手議員がクーデターをおこし、40名弱を連れて新しい派閥、「創政会」をけっせいします。
この時不運にも角栄は脳梗塞でたおれ、障害が残ったことから以後政治にかかわることはなくなってしまいました。
その後木曜クラブに在籍していた竹下登が「経世会」を発足したことで、木曜クラブは消滅の一歩をたどりました。
93年、角栄は肺炎のため、慶応病院で亡くなりました。
晩年は裏から政治を回す闇将軍として活躍した角栄。彼から学ぶことは、とても大きいのではないでしょうか。
ふぅ。今回の企画は全三回で構成してみました。
正直角栄は賛否が多い人物ではありますが、僕は彼をとても尊敬しています。
あんな生き方を僕もたどってみたいです。
もしこの記事で角栄に興味を持ったら、ぜひ石原慎太郎氏の「天才」を読んでみてください。
令和の時代にこんな政治家が出てきたら、日本は大きく変わるのかもしれませんね。
じゃあの。