僕の大好きな人物、田中角栄を紹介します。②
やぁ。おいらです。今回は昨日に引き続き僕の大好きな人物、田中角栄を紹介します。
前回は出生から政界入りまでを解説しました。
今回は政界入りから内閣総理大臣になるまでを解説しようと思います。
行きましょう👀👀👀
前回角栄は自らの会社、「共栄建築事務所」を「田中土建工業」へと改名、政治家への献金をきっかけに新潟で政界入りを果たします。
しかし、政治家となった角栄にはまた試練が立ちはだかります。
政治家となった角栄に金銭的癒着の疑惑がかかり、自宅家宅捜索の末逮捕されてしまいます。
ここで角栄の政治人生はおわってしまうのか、そう思った方が多いのではないでしょうか。
しかし角栄は「疑惑を持たせた自分が悪い。もう一度当選してやる」と自らの非を認め、なんと獄中から立候補、しかもtop当選を果たします。
僕は角栄のだいすきなところはここらへんの 粘り強さです。
のちに解説するロッキード事件においても、角栄は裏から政治を動かし、「裏将軍」と呼ばれるほど影響力を持ちました。
賛否はあると思いますが、それでも学歴がないと割り切って自分があるべき分野に注力する。これってシンプルながらとても難しいことだと思います。
さ、話を戻します。
舞い戻った角栄は主にインフラ整備、国土開発を取り扱う部署に配属され、俗にいう「議員立法」の作成に励みます。この議員立法ですが、角栄の議員立法成立数は33で日本一です。
主に成立させた議員立法には、一級建築士などの枠組みを定めたものから、テレビの公安について規定したものまでさまざまです。
現在の世間の根幹をなす立法をかたどったのは角栄だったんですね。
角栄が立法を行っている間、政治は大きく動いていました。
民主自由党が1950年に自由党へと改名、角栄はそれから四年後の54年に吉田茂内閣で自由党副幹事長に成り上ります。「吉田十三人衆」と呼ばれるほど上り詰めた角栄はその後、
・57年、岸内閣で戦後初の30代で郵政大臣に就任。
・62年、第二次池田内閣の改造により大蔵大臣就任
・65年、大蔵大臣を退き、自民党幹事長就任
71年、第三次佐藤内閣で通商大臣就任
など、芳しい出世街道をひたむきに走りました。
ここで、角栄を代表するある著書が世間に流通しました。
その名は日本列島改造論。インフラを都市部だけではなく、過疎部にも伸ばすのを目標にした新潟出身の角栄らしい画期的な本でした。
これが大ヒットを記録、総理の座が見えてきます。
「日本列島改造論」を発表した一か月後、角栄は自民党総裁選に臨んでいました。
佐藤内閣在任中に議員を従え「木曜クラブ」という新派を確立していた角栄は、佐藤栄作が推薦した福田赳夫に僅差で勝ち、ついに64代内閣総理大臣に成り上りました。
このエピソードが角栄の逸話の中で一番好きです。
福田は総理のバックアップを受けていて、しかも東大法学部卒業後大蔵省に入った、政治家としては超一流の人物でした。
そんな人物に高等小学校卒の角栄が打ち勝つなど誰が想像したでしょうか。
これは後年「人たらし」と呼ばれた角栄のまぎれもない努力の塊です。元気がないとき、なにもしたくないとき。いつもこの逸話を思い出しています。
今回はここまで。次回は最後として総理就任からロッキード事件、晩年の角栄について紹介していきます。
(角栄のようなどすの利いた声で)じゃあの。